盛り場としての両国・回向院

 回向院は、明暦3(1657)年「明暦の大火」における被災者追悼のために創建されました。市街の6割以上を焼き、10万人を越える犠牲者をだしたこの火事の被災者の大半は身元が不明になっており、将軍・家綱はこのような無縁の人々を葬るため、隅田川の東岸である現在地に土地を与え、「万人塚」を設けて大法要を行いました。このときに建てられた御堂が回向院の起源です。

 無縁寺である回向院では、境内に安置された観世音菩薩や弁財天などが庶民の尊崇を集めると同時に、その日本各地の名高い秘仏秘像の開帳を行う「出開帳」が頻繁に行われ、多くの人で賑わいました。また明和5(1768)年から明治42(1909)年の旧両国国技館登場まで、相撲興行の舞台の1つはここ回向院でした。春秋2回の興行が行われ、「櫓太鼓の打出」や「楼上甚九」が響いたといいます。

 栄えたのは、回向院のみではありません。明暦の大火の後、火除地の1つとして設けられた「広小路」には多くの茶店や見世物小屋、芝居小屋などが建ち並んだといいます。さらに隅田川に上がる両国花火は、江戸時代も夏の風物詩として人気が高く、通行が規制されるほどの人が集まって、橋の上や舟からこれを楽しみました。

 このように両国・回向院は江戸の一大繁栄地として庶民の文化が花開いた土地であり、これに題材をとった数々の浮世絵は当時の賑やかさ、華々しさを今日に伝えます。

回向院に眠る文化人

 回向院には鼠小僧次郎吉の墓があることで知られていますが、江戸の文化を担った文化人も多く眠っています。

 浮世絵師の鳥居清長、歌人で国学者の加藤千蔭、浄瑠璃語りの竹本義太夫にはじまり、江戸を代表する戯作者・山東京伝もその一人です。山東京伝は江戸時代後期に黄表紙作家として脚光を浴び、洒落本界の第一人者として知られていますが、北尾重政に浮世絵を学んでおり、草双紙の挿絵はもちろん錦絵なども多く手がけ、その多角的な才能で人気を集めました。また、京伝の弟であり同じく戯作者として活躍した山東京山の墓も兄の墓の隣に並んでいます。

諸宗山 回向院

【住所】〒130-0026 東京都墨田区両国2-8-10
【交通】JR総武線両国駅西口より徒歩3分、
    地下鉄大江戸線両国駅より徒歩10分
【電話】03-3634-7776
【HP】http://ekoin.or.jp/
 ※ 回向院についての詳細は公式ホームページにて確認をお願い致します。